anatofuzのなんかそういう感じ

インターネットアイドルの日常だと思って書いてます

高校時代の思い出

入社したので色々振り返ってみる。

山梨県出身なので高校は山梨の高校に通っていた。 山梨は2007以前は総合選抜制度だったので、高校は移住地と成績によって大幅決定される。 中心地甲府の高校はそこそこ成績がいい人間でしか、甲府外の住居がある人間は進学できないみたいな状態だった。

僕が高校を受験したときはすでに総合選抜制度が撤廃されていたが、依然として甲府の高校は人気が高かった。 中学時代はクラスがなかなか崩壊していたり、厨二病を発症していたこともあり、そこまで高い成績ではなかったので、甲府の高校の中では一番入りやすい高校に進学した。 オープンスクールでの印象が良かったと言うのもある。 工業高校の電子科でも良かったのだけど、大学にいくなら普通科にいっておけみたいな感じだった気がする。

入った高校は1年目は文理別れていなくて、2年目から文理が別れるみたいな感じ。 文系理系それぞれぞれに特進クラスみたいなのがあり、1年目は文理別れていないので特進クラスが2つあるみたいな感じだった。 入学してわかったのだけど出身高校は普通科なのに専門学校と私立の指定校進学がだいたいを占めており、高校の売り的な国立大進学はこの特進クラスからしか無いみたいなのが教師の共通見解だった気がする。

高校入学するときに中学の数学と英語の復習のテキストと、「大学進学を希望しますか?」みたいな雑なアンケートがあり、「はい」にまるをつけたところ特進クラスである5組に入学することになった。

入学したクラスの担任は数学の教員で、バスケットボールに人生を賭けているようなスポーツタイプだった。 教員になって初年で僕の母校に配属され、僕が入学する一年前まで別の高校で働いていたらしい。 口癖は「昔より丸くなった」「W大学出身です」「子供ができて丸くなった」のだけど、1週間に1度は黒板と机を蹴ったり、4Fから飛び降りろと言われたりするなど、全然丸くなってない印象だった。人間として合わなかった感じがある。その先生は吉村知事に顔が似ているので、今ニュースをみると不必要なトラウマが蘇ってくる。W大学の人と会うと若干トラウマがでるのも悲しい状態になってる。

高校では曜日によって8:30から小テストを毎週される。確か火曜日が英単語で木曜日が古典、金曜日が数学。 テストには合格点があり、特進クラスは合格点が他のクラスより高い。 内容はほぼ暗記で、一週間でやってきた課題の内容を出される感じ。 僕自身は登下校で疲れていたり、もともと暗記に関しては要領がよく無いのでそんなに点数が取れないので、毎週補講に出ていた。 テストが悪いとめちゃくちゃ怒られるし、補講にでてもめちゃくちゃ怒られるので、基本的に何やってもめちゃくちゃ怒られるみたいな感じだった。

個人的にはそういうのもあって、2年目からは一般クラスになりたかったのだけど、意図的に3年間特進クラスになってしまった。 これは1年生の頃から結局3年間同じだった担任が、教育的配慮とか、リベンジを期待するとかいう謎のスポコン根性で3年間同じクラスに意図的にしたらしい。 なんでこんなことを知ってるかと言うと、2年生のときにどなられながら「そうやってクラスに配属したから意味を考えろ」と言われたからである。正直どう考えろと言うのか今でもわからない。 教員からのよくわからない怒鳴られは、なんか勉強合宿みたいなイベントで「眠いな...」と思いながら問題を解いていたところ、別の数学教師になぜか全員が「態度が悪い」「そもそも勉強合宿があって悔しく無いのか」「そこで怒られて何糞と思って這い上がってくるんだよ!!」とか説教されたけど「人によるのでは…」みたいに思った思い出がある。 まぁ担任とは壊滅的に合わなくて、「お前は一生成功しない」とか「働き蟻の法則の怠ける2割の方」とか色々言われたことがある。 特に辛かったのは高1の学園祭の新聞の出し物の係になったのだけど、記事担当のクラスメイトが書いてくれなくて、「間に合わなくてどうしようか」と思い担任に謝ったところ「お前が編集長だからはやくしろ」「なんで遅れたんだ」と言われたので、理由を説明したところ「言い訳するな!!!」とめちゃくちゃに怒られた思い出である。理由聞かれたのに。。。。。当時は偉くて、ちゃんと「じゃあなんて言えばよかったんですか」と聞いたら「そう言うときはただ謝り続けろ」と言われた覚えがある。他には下着の色が赤色だからという理由で首を掴まれていたりとか、そういう感じの担任の元だった。

さらにクラスも3年間ほぼ変わらなかったのだけど、常に成績が悪い足手まといみたいなロールだったので、クラスメイトとも仲良くできなかった。 クリスマスとかバレンタインデーのときはクラスメイトでお菓子を交換しよう!!みたいなイベントが僕抜きで行われていて、僕はなんか参加する居場所がなかったのでピロティに逃げ出していた気がする。 学園祭は強制的にクラスの一致団結!!!みたいになって、俺たち5組最高!!!みたいになるのが耐えられなくて、学園祭終わりの学級会に参加しなくても済む閉会式係に3年間なっていた。閉会式係は便利で、閉会式で点数が発表されて盛り上がってるクラスの輪に入らなくても済むのである。 仲良くしていたクラスメイトもいるけれど、まぁそういう精神状態だと、憐れみで仲良くしてもらってるのでは?みたいな気持ちになり辛かった。 卒業してからは、唐突にクラスLINEに僕と他の暗いメンバー以外と、担任が集結しているクラス会の写真が貼られてからLINEグループを抜けてからはほとんど関わりがない。以前Twitterで同級生のアカウント発見してしまったので見ないようにはしている。

良かったのは部活とバイク通学である。 部活は弓道部で、まぁ大多数とはあまり話さなくなってしまったのだけど、あそこは人間としてちゃんとやっていける場所だった。 部活で仲良かった2人の友達とは、まだ定期的にLINEで喋ったり、コロナ以前は飲みに行ったりしていた。 バイク通学は家と高校が遠かったので原付で登校していた。 一人で20分くらいバイクに乗るのは自分の中で重要な時間だったと思う。

そんなこともあり3年生では進路を決めることになる。 本当は文転しようと思っていたけど、言い出せず、まぁ情報系に移行としていた。 情報系にいければなんでもいいと思っていたから、担任がクラスの朝の会で言っていた「指定校推薦が気になる人は放課後きて」で、職員室に行ったことがある。 このときはなぜか職員室で待たされて、他のクラスメイトがにこやかに担任と指定推薦のリストを見て話した後に、担任が部屋から退出してなぜか一人でリストを見せられた。 リストを見て東京電機とか、いきたい大学をピックアップしていたあとに担任がやってきて「大学決まった?」と言われたので正直に大学名を伝えたところ、机を叩きながら「お前はクラスメイトに申し訳ないと思わないのか!!!??」と怒られた。どうも国立を受験せずに指定校推薦で行くのはクラスメイトに申し訳ないらしい。人生は難しい。

そこまでキレられるともう国公立にいくしかなくなり、さまざまなことがあり琉大を受験するというのを担任に報告したところ、今までの振る舞いがなんだったかのように優しくなった。というか普通の対応になった気がする。 あの瞬間に僕はただの国公立受験者と合格者の+1の数値でしか見られてなかったのだな...とショックだった。

高校時代めちゃくちゃ頭痛がひどかったのだけど、卒業してから行った頭痛クリニックで「鬱ですね」と言われたので、3年間鬱だったらしい。まぁよく通学したと思う。

担任には「教育者というより研究者だから何も教育してくれない」と言われた大学に進学して、高校時代より色々学んだ気がする。 まぁ別の楽しくもない高校時代だったのだけど、あの時の人間的にこう認められない3年間よりははるかにいい生活をしていて「まぁなんとかなるだろう」みたいな気持ちになっている。 あの頃に戻りたいとは思わないけれど、あのときどうしていいかわからなかった自分と会うことがあれば、まぁなんとかなるという感じを伝えてあげたい気がする。